飯田義一という人物

●飯田龍一氏の御他界を知らされ、仏前に香を捧げて、飯田家を辞去した。その時、何としても龍一氏の追悼文を書きたいという欲求にかられた。御子息から渡された資料を読み進めてゆき、父は、飯田邦彦氏であり、祖父は飯田義一氏であることがわかった。どこかで聞いたような記憶、龍一氏の祖父は、あのシーメンス事件に関係のある人であった。

●飯田義一氏は、嘉永3年(1850)に山口県の士族の家に生まれたが、実業家を志し、明治7年鉄道寮に入社した。大阪で鉄道の資材購入関連の仕事をしていたが、その時、取引先の三井物産の益田孝氏に認められ、明治17年三井物産に入社した。以後、実力を評価され、大阪支店長となり、34年に理事、43年には取締役となり、三井銀行三井鉱山の各取締役、三井合名会社の参事をも兼ねた。大正3年、例のシーメンス事件に関連して、三井関連の諸会社の要職を全て辞したが、その後も、芝浦製作所王子製紙等の重役として活躍している。大正13年2月10日、新龍土町の家で没した。享年75歳であった。

●父の飯田邦彦氏は、東京外国語大学中国語科を卒業し、正金銀行(東京銀行東京三菱銀行三菱東京UFJ銀行)に入り、清国末期の頃は北京に勤務していた。大正12年8月9日、入院中の赤十字病院で他界した。

●飯田龍一氏は、大正12年に父を、翌13年に祖父を続けて失っているが、この時、11歳であった。氏の成長された環境は、概略上記の如きものであった。 龍一氏が生前に書き残された記録や事典等の記述から、簡略に紹介すると、飯田氏の生まれた家(当時、麻布区新龍土町12番地)は、祖父・義一氏の建てたもので、敷地は千坪程あり、建物もかなり立派なものであった由である。部屋の数も大変な数で、映画専用の大きな部屋もあったという。現在はやりのホームシアターであるが、規模が違う。夏の軽井沢の避暑にも列車を1両借り切って行ったという。龍一氏は、遠慮がちに書き遺されているが、これが幼いころの思い出であったようだ。 このような家柄の方であってみると、私との交流の違和感のようなものも、今は理解できる。

●飯田義一氏は、山梨出身の優秀な外交官・埴原正直と娘を結婚させている。山梨出身の小林一三三井財閥で活躍している。その辺りに関係があるのかも知れない。そんな事を思った。