川北奉行齋藤筑後守広盛の事績
●山形県酒田市の郷土史研究家の田村寛三先生から、嬉しい便りを頂いた。先生は『荘内日報』(2010年12月3日)に、「川北奉行齋藤筑後守広盛の事績」という論説を発表された。齋藤筑後守広盛は、『可笑記』の作者、如儡子・齋藤親盛の父親である。これまで、「盛広」とされてきた人物である。私は、近時、「盛広」は「広盛」が正しいとする説を提出した。田村先生は、早速、この私の説を認めて下さり、この論説を発表されたのである。如儡子の出身地・酒田の郷土史家の第一人者に認められたことに、まず感謝申し上げる。
「川北奉行齋藤筑後守広盛の事績 田村寛三
広盛の父親、齋藤家初代・光盛は越後の人であったが出羽の国に移り、庄内の守護大宝寺義氏に仕え、藤島の城代となった。光盛は16歳の初陣より、ここかしこの軍に従事し、自ら敵の首を切ること32、中でも土佐林中務少輔を討ち捕り、勇名をとどろかせた。戦国乱世の子にふさわしく、武将として活躍した。33の首を捕って首塚を築くことを念願としていた。ある戦いで、一人の敵とむんずと組み合い、もみ合い、ついに刺し違えて死んだ。時に1582(天正10)年、32歳だった。
広盛は1568(永禄11)年、光盛の長男として出生した。天正10年、父光盛の戦死により家督を相続し2代となる。15歳である。
1583(天正11)年3月、広盛、16歳で初陣。東禅寺筑前守、東禅寺右馬守とともに大浦城(大山)を襲い、主君・武藤義氏を自害させる。1588(天正16)年8月、本庄繁長は東禅寺筑前守、東禅寺右馬守兄弟と十五里ケ原で戦い、これを破る。この戦いに広盛も参戦し、敗戦ののち、居城・藤島城へ立て籠もった。繁長は押し寄せて攻めたが落城せず、和議が成立した。広盛は以後、上杉景勝に仕え、元通り藤島城に住した。・・・・・・」
●田村先生は、このように書き始められている。長文であるため、全文は紹介できない。いずれ、先生の御許可を頂いて「近世初期文芸研究会」のHPに紹介したいと思う。
★田村先生の許可を得て全文をアップした。
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