校訂と清掃と

●このところ、我が家の桜の葉も色づき、朝昼晩の私の掃除も大変である。大変ではあるが、葉っぱを掃きながら、感謝の思いもヒシヒシとしみる。隣近所の皆さんも、先手を打って掃いて下さる。有り難いことである。感謝を込めて掃除する、それに、掃けば綺麗になって、さっぱりして、心が癒される。落ち葉掃きも捨てたものではない。そんな思いもする。しかし、掃いても掃いても、葉は残っている。書を校するは塵を掃くが如し、とは、よく言ったものである。

●先日、若い研究者から封書が届いた。過日の古典翻刻の正誤表が入っていた。1作品丸々ゆえ、翻刻の量も多かったが、訂正箇所も多い。私は、思わず笑ってしまった。自分の若い頃を思い出したからである。私は、仮名草子作品をはじめて翻刻したのは、ちょうど40年前の『可笑記評判』であった。全10巻で量も多かった。タイプ印刷で訂正も大変なので、慎重に原稿を作った。しかし、誤りも少なくは無かった。1頁丸々正誤表に充てた。出版した後も、ミスを指摘され、恥ずかしい思いをした。今度の、若い研究者のミスの中には、私と同じものも、幾つかあった。それで、思わず笑ったのである。このミスを恥ずかしいと自覚して、次への一歩を踏み出して欲しい、と返事を出した。

●古典本文の翻刻は、大変難しい。私の経験では、若い頃は、経験不足ゆえのミスが多い。経験を積めば、古典全般の知識も多くなり、草書のバリエーションも蓄えられる。しかし、この経験には限度が無く、常に研鑽を強いられる。頂点を極めたと思う前に老化現象が進む。若い時には若い時の弱点があり、歳を取れば、取ったで、経験した事を忘れるという欠点がある。老齢者の仕事にミスが多いのは、このためである。これを自覚して、仕事を減らせばよいのに、何時までも手を出したい、と願う。これが人間の宿命のように、つくづく思う。

■本日の成果


■14年前は、直径15センチほどのソメイヨシノも大木になった。


■「校書如掃塵」 冨樫省艸 刻 40ミリ×19ミリ