斎藤親盛・如儡子 の 俳諧

如儡子・斎藤親盛は、伝統的な和歌の集、「百人一首」に膨大な注釈を著した。それは、『砕玉抄』『百人一首鈔』『酔玉集』『百人一首註解』として伝わっている。しかし、近世の詩は俳諧である。近世の仮名草子作者・如儡子俳諧に無関心でいられる訳がない。それは、長い浪々の人生の晩年に至って花開く。

●万治3年(1660)、子の秋盛(ときもり)が、福島の二本松藩・丹羽光重に採用され、一家は二本松へ移住する。この、二本松は、東北でも文化の盛んな所であり、藩士たちの手ほどきを受けたか、如儡子俳諧は、見事に開花する。しかも、貞門俳諧の第一人者、松江重頼の指導も受ける幸運に恵まれた。

●斎藤親盛・如儡子 の俳諧作品

1、 松江重頼撰『佐夜中山集』寛文4年(1664)刊
 2句入集
2、内藤風虎撰『夜の錦』寛文6年(1666)刊
 7句入集
3、内藤風虎撰『桜川』寛文12年(1672)刊
 40句入集
4、松江維舟撰『時勢粧』寛文12年(1672)刊
 5句入集
 『親盛・友我両吟百韻』(松江維舟批点)入集
5、松江維舟撰『時勢粧小鏡』寛文12年(1672)刊
 1句入集
6、宗善庵重安撰『糸屑集』延宝3年(1675)刊
 1句入集
7、 北村季吟撰『続連珠』延宝4年(1676)刊
 1句入集

■田舎にて花の都や和哥の友  親盛
            (松江重頼撰『佐夜中山集』 寛文4年刊)
江戸を離れて二本松という田舎に来たが、ここは、華やかな都のように、文化も活発で、歌の友にもめぐりあえたことだ。
親盛は、20歳頃までは、山形の酒田で、川北三奉行の一人・斎藤筑後守広盛の嫡男として成長した。元服の時には、主君・最上家親から「親」の1字を賜り、清三郎を改め「親盛」と称した。しかし、最上藩57万石は取り潰しとなり、広盛・親盛父子は浪人となる。以後、30余年間、妻子を抱え、浪々の生活を続けた。息子が二本松藩に仕えることになり、江戸から移住したが、ここは田舎であるが、同じ北国の雪も降る土地でもある。しかも、ここは、藩全体が和歌や俳諧の盛んな、文化の香り高い所である。この1句には、60歳になろうとする、晩年の親盛の平穏な様子がうかがえる。