中仙道 と 東海道

●『酒井伴四郎日記』によると、酒井伴四郎は、万延元年(1860)5月11日に和歌山を出発して江戸へ向かう。京都から中仙道を通って18日間かけて江戸へ到着する。7泊目は岐阜大垣の「赤坂」であった。

「十七日 朝より雲り、摺針峠にてあんころ餅喰。叔父様朝より御乗り、関ヶ原にて昼遣、其所より駕に乗り、甚気分悪く野上村にて養老酒二盃呑。赤坂迄駕にて寝る。同所宿り。誠に気分悪敷、ふかんきん二服煎呑。あんまにもませ、髪結せ、少し宜敷なれども、肩之こり甚いたし。」(翻刻の表記を一部改めた)

●井関隆子の子の親経は、天保12年(1841)11月13日、将軍家斉の正室・広大院の名代として江戸を出発、京都へ向かう。東海道を通って13日間かけて京都に到着する。7泊目は愛知県の「赤坂」であった。

岸井良衛の『五街道細見』によれば、中仙道の「赤坂」では、本馬62文、軽尻39文、人足30文であるが、東海道の「赤坂」では、本馬192文、軽尻127文、人足92文、東海道の方が約3倍である。面白いデータである。

■■『酒井伴四郎日記』万延元年5月17日の条

■■『五街道細見』附図 左上が中仙道の赤坂、右下が東海道の赤坂