武田信玄・家臣の墓

オオタカの森の近くに、真言宗豊山派金剛院の広い墓所がある。散歩の途中に時々立ち寄って、観音様にお参りしているが、その中に、ひときわ広いお墓があり、大きな改葬碑が建っている。気になっていたが、昨日、拝見した。

●改葬碑によれば、家祖は、志村遠江守富直といい、甲斐国主・武田信玄の二十四将・山県昌景の副将48人の1人である、という。元亀3年(1572)の家康を破った三方ケ原の合戦の折には、左翼の軍団長として活躍した。武田氏滅亡の、天正10年(1582)には、主君・勝頼を天目山へ向かわせ、志村は裏切った小山田を迎え撃ち、孤軍奮闘したが、壮絶な最期を遂げたという。志村家一党は甲府を去り、居所を転々とした後、武蔵国の現在の金剛院の近くに居を定めたという。家祖・富直より二十二代、約400年を経て現在に至るとのこと。改葬碑の建立は、平成5年(1993)である。

●二十二代続くという志村家の墓石は、古いものも多く、広い墓所に30基ほど建てられている。甲斐の国、身延の近く、飯富兵部の出身地に生れた私は、志村家の墓前に手を合わせた。

■■志村家の墓所

■改葬碑