「井関隆子」 は 「私」 を越えた

●今日は、主治医の斎藤先生の所に行って、定期健診をしてもらった。特に異常は無い。アクトスアムロジンの処方箋をもらう。これは、糖尿病と血圧の薬である。診察が終わったら、先生は引き出しから、東京新聞に以前掲載された「江戸探訪」の「ツアーで大奥も見物」という飯田イチロオ氏の切り抜きを出して私に下さった。昨年の掲載だと思う。

●法政の広末保先生もお世話になっていて、その後、私が診てもらうようになった。広末先生の著作は魅力的で、斎藤先生とも、大の仲良しだったらしい。この切抜きを見て、私もようやく、斎藤先生から認知してもらえるようになったか、と思う。井関隆子の御蔭である。

●帰宅して、Googleで検索してみたら、井関隆子は、はるかに私を越えていた。
◎井関隆子 ・・・・・・ 63100
◎深沢秋男 ・・・・・・ 12400
如儡子  ・・・・・・  6190
鈴木重嶺 ・・・・・・  5140
こんな結果であった。実に嬉しい。

●私が、この女性の日記に出会った、昭和47年(1972)には、この女性は日本文学史・日本歴史の上に存在しなかった。日記も「天保日記」と言われ、記者は「井筒隆女」「井筒隆」と言われていた。以後、私は、この日記の作者は、井関隆子(いせき・たかこ)であるから、日記も「井関隆子日記」と読みましょう、と提案し、昭和女子大学の近世文学のカリキュラムに組み込んでもらって、叫び続けてきた。その結果が、本日のグーグルのヒット数になったのであろう。お世話になった、多くの方々に感謝し、小さな私を越えた井関隆子に拍手を送りたい。如儡子・斎藤親盛も、鈴木重嶺も、やがて、私を追い越すだろう。

■■井関隆子の署名
私は、昭和女子大学の学生に、このような資料を回覧して、記憶に留めて欲しいと、叫び続けてきた。




■■これは、陰間、男色。



■■井関隆子は、日記を完成させるために、何回も推敲し、最終的な修正は、このように、本文紙を切り抜いて訂正している。