京都 粟田口 からのプレゼント

●京都から宅急便が届いた。教え子の飯沼さんは古都の紅葉狩りを楽しもうと、5月にホテルの予約をしたという。紅葉は少々早かったけれど、古寺を廻り秋の風情を味わったとメールをくれた。ついでに、陶菓・粟田焼を心ばかり送ったので賞味して下さい、とのこと。その粟田焼が今日届いた。

●お店の口上によれば、近世初期に誕生した粟田焼は青蓮院門跡の庇護の下に、京都屈指の陶窯地として繁栄したが、やがて衰退、これを惜しんで「陶菓 粟田焼」を始めたと言う。早速賞味させて頂き、京都らしい上品な味覚を楽しんだ。

●記録によれば、金閣寺住持の鳳林承章の34年間にわたる日記『隔冥記』に粟田焼のことが盛んに出てくるという。当時、京都の上層階級の間では、茶の湯が流行し、その茶器の注文を粟田焼の陶工たちが引き受けていたからのようである。

●実は、この鳳林承章の『隔冥記』には、食べ物の記述が多い。私は初期俳諧の研究をしていた頃、東寺と白うるりの関係を調べていて、この膨大な『隔冥記』を毎日毎日、読んだことがある。原文は漢文ゆえ、読むというよりも、字面を追うような作業であった。半月も続けたが結果は空振りに終わった。研究にはこのような方法も、時として有効である。

●ただ、このような無味乾燥のような作業に、思わぬ副産物があった。後陽成天皇とも深い関係にある鳳林承章の日記に、何と、如儡子の『可笑記』が登場したのである。寛永20年(1643)4月14日の条に、鳳林承章は七条坊門の金光寺覚持から仮名草子の『可笑記』を借りている。これは、非常に貴重な記録であった。このような高僧が、仮名草子の読者であった。しかも、5巻揃いではなく、二巻ずつ借りていた。

●11月17日に、京都から銘菓が届き、その連想から、40年以上前の研究の1コマが思い出された。

■■「陶菓 粟田焼」