文学作品の評価

●同郷の詩人・佐野千穂子さんから『山梨の詩 2008』(2009年4月30日、山梨県詩人会発行、定価1500円)を頂いた。佐野さんは賛助会員として執筆されたようだ。「<エッセイ> 詩の中の山郷」は、早川町奈良田の訪問記で、田中冬二の詩碑を取り上げている。奈良田は陸の孤島で、古い文化が温存されていて、言語学者は大切に研究した、と聞いたことがある。詩人・田中冬二は、昭和11年に訪れているという。佐野さんの文章を読んで、自然に包まれ、自然に振り回され、自然と共につつましく生きる人々の生活を、詩に遺した詩人の尊さを思った。

●ところで、この『山梨の詩 2008』には、山梨県詩人会会長・古屋久昭氏の「山梨の詩、大正から現代―創刊詩誌を中心に―」という労作が掲載されている。古屋氏はこの作業を、「個々の高低のレベルとは関係なく」整理し、これらに一定の評価を行い整理しなおすのは、「そういうことに眼力があり長けた人に託す」ことにしたという。謙遜だとは思うが、妥当なことのように思う。

●詩や短歌や俳句など、どうして高低のレベルを判定するのだろうか。朝日歌壇には4人の選者がいるが、4人とも同じ歌を選ぶことは稀である。芥川賞の受賞作品の評価も、選者たちによって真っ二つに分かれることもある。文学作品の評価のむつかしさがここにある。作品の評価基準はどこにあるのだろうか。

●私は、古典文学を研究しながら、一時、近代文学評論を考えたこともあった。芥川賞受賞作品や候補作品を読んで、その評価を書き付けたノートが何冊かある。文芸評論は、作品に出合い、一読、直感で評価しなければならない。ゆえに、秀れたものは、時代を超えて輝き、劣った評価は、作品の価値を見抜けず、後世にハジをさらすことになる。文学研究者だって同様で、選んだ対象によっては、一生を棒に振る事にもなる。


■■『山梨の詩 2008』