芸文稿の会 IN 竹ノ塚

●「芸文稿の会」の例会の会場は、通常、神楽坂であるが、昨日の第20回は竹ノ塚で行われた。今回の発表者は、SL氏で、「江戸時代の藩財政―米沢、水戸藩を例として」と題して有益な発表であった。米沢藩は、藤沢周平『漆の実のみのる国』、水戸藩は、山川菊栄『覚書 幕末の水戸藩』を、それぞれ、取り上げて、江戸時代の藩財政、藩士の暮らし向きの実体に言及した。

米沢藩については、藤沢周平の映画『たそがれ清兵衛』が先日テレビ放送されて、観ていたし、現在、NHKの『天地人』も放送中で、私としては、身近に感じられた発表でもあった。慶長6年(1601)8月16日、上杉景勝は、陸奥の国、若松〔会津〕藩120万石から、出羽の国、米沢藩30万石へ転封となる。徳川家康の報復処置であるが、景勝は家臣5000人を引き連れて米沢に引っ越したと言う。ここから、米沢藩の困窮生活が始まる。藤沢周平の著書には、それらが具体的に記されていて、大変参考になる。

●幕末の水戸藩も大変だったことがわかる。これに関しては、鹿島則孝の膨大な記録『桜斎随筆』にも詳細に書き留められているが、これらは、具体的な記録で、大いに参考になる。

●今回の研究発表を拝聴して思うことであるが、明治維新の新政府が、旧幕藩体制に替わって、新しい国の組織を立ち上げたが、この時、徳川幕府の組織を利用していないか、そのための悪弊が引き継がれていないか、ということである。幕末の旗本の主婦の日記『井関隆子日記』を読んでいると、幕府と各藩の関係、旗本と各藩士の確執が目立つ。佐渡奉行長崎奉行下田奉行等々、これらは、なにやら、現在の各県の政策と、各県への国の出先機関とも通うものがあり、交通が便利になり、ネット通信で情報が即時化した現在、これらの行政区画も整理合併し、霞が関出先機関は、もう不要ではないかと、素人考えながら痛感した。そんな研究会だった。

■■ 鹿島則孝編著『桜斎随筆』巻11上
  平成12年11月10日、本の友社発行、鹿島則良・深沢秋男編