東禅寺正宗

仮名草子作者・斎藤親盛(如儡子)の母方のおじ(兄か弟)に、東禅寺右馬頭・勝正がいた。酒田の東禅寺城主・筑前守の弟といわれている。天正16年(1588)に、越後の上杉軍・本庄重長が庄内に攻め込んだ時、十五里ケ原で戦い、最上軍の東禅寺兄弟は敗れる。

●この時、兄の筑前守は討死したが、弟の右馬頭は、味方の侍の頭を左手にぶら下げて、越後方の武将に成りすまして、本庄重長の本陣に駆け込み、最上方の武将東禅寺右馬頭を討ち取ったり、確認してくれと声高に叫んだ。物凄い形相に、越後方の侍も道を空けて重長の前へ通した。東禅寺は重長の前に達すると、ぶら下げた頭を放り出し、大刀を抜くや、重長に斬り付けた。事の次第に周囲の侍も気付いて応戦し、やがて、右馬頭は討取られてしまう。

●この時に東禅寺右馬頭が持っていた太刀が正宗の鍛えた名刀であった。太刀を奪い取った本庄重長は、主君・上杉景勝にこれを献上した。その後、豊臣秀次に渡り、秀吉移ったが、ここで、本阿弥光悦が相州正宗であると鑑定し、以後、名品として伝わることになる。島津義弘徳川家康→頼宣→家綱→綱吉→吉宗→家重→家治→家斉→家慶→家定→家茂→家喜→家達・・・。昭和14年に国宝に指定たが、第二次世界大戦終結の時、進駐軍によってアメリカへ持ち去られ、現在は所在未詳とのこと。

●この正宗の太刀は、本庄正宗と言われているが、この来歴からみると、むしろ東禅寺正宗と呼ぶのが妥当のように思われるが、いかに。

■■『刀剣名物牒』古書店に依頼していたものが、今日、届いた。これで、また、本庄正宗のことが、少し解明された。

■■本庄正宗 の条

■■奥付 昭和7年10月30日発行 再訂版