井関家の痘瘡(もがさ)

●『井関隆子日記』天保11年4月6日 の条

「・・・ここにも一とせ、親賢が子どもの二郎なる、四ツ斗なりしが、是やみて、まづうせぬ。太郎なる後にやみたる、それ、はた、かろきやうにもあらざなりしかば、いかにいかにと、いみじう、おぼつかなく思ひわたりけるに、からうじてなむ、おこたりはてたりしが、未だ女の童二人ものせず、いと心もとなし。はた、是を病む時、大方家毎に、もがさの神とて祀れり。ここにもはじめの度、気色ばかり、ぬさなどまうけ、祝ひたりしが、二郎の失せぬれば、まがまがしくて、後の度はいささかも、さる事せざりしが、ことなくおこたり果てき。大方、かうやうのことは、人の心々なるべし。すべて、時の気は、えやみのたぐひにて、みなよからぬ神のみしわざにはあるべけれど、とりわきて、此疱瘡神なん祀らるる。
むかし、いみじくあへもし、なごめもしもし、まつり給へりし、たたる神、えやみの神などとこそ同じつらの神ならめど、時によりて、病めるさまの変れるなるべし。・・・」

●隆子は、世間に様々な職業があるが、家相見・地相見・墓相見などは、人を惑わすもので、無用であるとも言っている。彼女は迷信などは信じてはいない。実に合理的な考えの女性であった。

■■『井関隆子日記』天保11年4月6日 の条