重友毅と近藤忠義

●『文学研究』の創刊号には、巻頭に重友先生の「創刊に寄せて」の文章があり、続いて近藤先生の「学問と平和の問題」がある。

●重友先生は、その「創刊に寄せて」の中で、
「・・・諸君の結成する会が、実質的に大きく発展することはもとより望ましいが、はじめから大がかりなやり方をすることはやめてほしい。きわめて謙虚に、また地道に、たとえば機関紙など、自分たちの研究を押し進めるためのつまりそれがために、いやでも研究をつづけなければならないといつたようなものにしてもらいたい。論文の発表は、人に認めてもらうためよりも、むしろ自分の欠点をはつきり知つて、それを反省するためのものだ、という風に考えてもらいたい。しかしまた、そこで恥をかいたからといつて、すぐにめげてしまうても困る。出す以上は、それだけの覚悟があるはずだから、いわゆる三号雑誌で終わるようなことのないように努力してもらいたい。・・・」
と述べておられる。

●近藤先生は、その「学問と平和の問題」を、
「八月七日の朝、五時すぎに広島に着いて、大学から廻して下さった車で、戦後はじめて見る広島の細雨に烟る街々を抜けて大手町のF旅館にはいつた。」
と書き起こしておられる。昭和27年の8月であろうか。広島で会議があり、そこに参加された時の回想ではないかと思われる。先生は、原爆ドームの残骸の前に立ち、かたわらの説明書を読んで、満身の憤りを感じたと言う。
「あの説明文の冷やかな第三者的な書きぶりは何事であるか。「ここにもと美しいドームが河水に影を映して立つていた。しかるに一九四五年八月六日、第二次世界大戦終結せしめた原爆が落されてこのように壊された」という意味のあの文章は日本人の断じて書きえぬものであり、ヒューマニストの読過しえぬものである。」
そして、第2日目の研究発表の内容にも少なからず、先生は、不安と不満を覚えたと記しておられる。

●重友先生も、近藤先生も、当時法政大学の近世文学の看板教授であった。あれから、55年を経た今、既にお2人の先生は他界され、学界の現状を見渡す時、様々な感慨が押し寄せる。
●そう言えば、先日、島本昌一氏を中心にした「近藤忠義先生を偲ぶ会・歴史社会学派研究会」共編『近藤忠義 人と学問』第4集が出た(2009年3月発行)。歴史社会学派は、今、どうなっているのか。『文学研究』創刊号に祝辞を寄せた、日本文学協会の機関誌『日本文学』の現状は如何に。戦後の半世紀を振り返ると、実に興味深いものがある。