もう1つの関ヶ原合戦 長谷堂の戦い

●慶長5年(1600)は日本の歴史の上で記憶すべき年である。6月16日、徳川家康会津討伐に出発、7月17日、石田三成挙兵、24日、家康、軍を引き返す。9月15日、家康の東軍が三成の西軍を破る。関ヶ原の合戦である。

●この時、東北では、最上義光が酒田城を攻めようとしたので、直江兼続は米沢から最上領へ攻め込む。ここに、最上と上杉の長谷堂合戦が繰り広げられた。この合戦の時、酒田城の志田義秀・下吉忠らも最上領へ攻め込んだ。この天下分け目の決戦も、関西の石田三成軍が敗れたため、上杉景勝直江兼続も、結果的には撤退をする事になる。

●実は、この時、如儡子の父・斎藤広盛も、直江方に与して、酒田から手勢を率いて参戦している。斎藤家に代々伝わる記録に基づいたと推測される『世臣伝』には次の如く記されている。

●「・・・慶長五年、主の景勝、徳川家に背き参らせし時、直江兼続〔山城守〕最上表の先陣打て馳向ふと聞しかば、広盛も手勢三百余人にて、古口庭月〔最上方の取手也〕の両城に馳向ひ、不日に攻てせめ落し、庄内の通路も自由なりければ、直江も安々と討ち入りて、戦ふ毎に不利といふ事なし。既に長谷堂山まで取り敷しに、伊達の政宗、最上家の後詰して、防ぎ戦ひし程に、直江も散々に打なされ、米沢さして引退きぬ。・・・」

如儡子は、この3年後の頃、酒田の筑後町で生れている。幼少のころから、これらの戦の様子を父から聞いていて、それを『可笑記』の中へ書き留めたのであろう。

■■『世臣伝』二本松、鈴木マス氏所蔵本

■慶長5年の、長谷堂合戦の条の記述