「武心士峯」「雪朝庵士峯」

如儡子・斎藤親盛の法名は「武心士峯居士/延宝二甲寅三月八日/俗名斎藤以伝」と菩提寺過去帳にある。また、百人一首の注釈書『砕玉抄』の跋文には「雪朝庵士峯ノ禿筆作/如儡居士」とある。山形最上藩の武士の家に生まれ、父は奉行であった。最上57万石崩壊後は、後に入った酒井家に仕えず、父とともに浪人の道を選んだ。しかし、主君・最上家親から「親」の一字を賜って親盛と名乗った彼には、武士としての誇りがあった。浪人の身にはなっても、志は武士の頂点を目ざして生きた。「武心士峯」は、ここに由来する。

●斎藤親盛の生れた酒田の地は、日本海の海運で京都との関係も深く、高い文化の地であった。しかし、冬は寒く雪に閉ざされた。如儡子は、この酒田の筑後町で、18歳頃までは成長した。」「雪朝庵士峯」の号は、こんなところから付けられたものと、私は推測している。

●私は、如儡子出生の地、酒田には、毎年、夏休みを利用して調査に出かけた。しかし、これでは、雪国・酒田を実感することは出来ないだろう。平成12年の2月、ようやく夢は実現した。幸い、雪も降ってくれた。その時、私は、また1歩如儡子に近づいたと感謝した。

■■篆刻 「武心士峯」「雪朝庵士峯」
篆刻家・冨樫省艸氏刻 
冨樫氏は、如儡子と同じ酒田の御出身、私は冨樫氏の御厚情によって、篆刻遊印を400本所蔵している。

■「武心士峯」陰刻縦長方形朱印、縦60ミリ×横13ミリ。

■①「雪朝庵士峯」陽刻方形朱印、28ミリ×28ミリ。
■②「雪朝庵士峯」陽刻縦長方形朱印、縦62ミリ×19ミリ。