『井関隆子日記』研究の新論文

●真下英信氏の新しい論文、「音で読む『井関隆子日記』:物売り」を拝受した。『慶應義塾女子高等学校研究紀要』第32号(2015年3月刊)に掲載されたものである。真下氏は、これまで、「音で読む『井関隆子日記』:天気の記述」「音で読む『井関隆子日記』:鳥」等の研究を発表してこられた。それぞれ、隆子の特色を見事に摘出して見せてくれた。今回の論文「音で読む『井関隆子日記』:物売り」のタイトルを見て、私は戸惑った。はて、どんな場面があったろうか。にわかに思い浮かばない。
●真下氏は、今回も、まず結論を示してくれている。
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 「結論は次のようになろうか。今日の東京と異なり、江戸では物売りを初め様々な商人の声が往来していた。だが、隆子はその声を聞いても懐かしがることもなければ感傷的な気分に浸ることもなかった。物売りの職種の盛衰を知ってはいたが、明治以降の人々とは異なり、売り声を聞いて人が往々にして抱く滅びゆくものへの懐古の念に駆られることもなかった。彼女は物売りの声そのものにさしたる興味を示さず、彼等の往来を社会的事象の一つとして、あるがままに淡々と記述しているだけである。」
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●なるほど、そういうことか。私は納得した。しかし、真下氏の作品分析は、誠に実証的に進められてゆく。そうして、まとめの部分では、次の如く述べておられる。
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「隆子にすれば、棒手振りたちの声を聞きその姿を見ても軽蔑の念を抱きはすれ、懐かしさあるいは郷愁を覚えることはなかった。生来の旺盛な批判的精神に満ち満ちた自由闊達な気性であった彼女にしても、最後は旗本夫人、幕臣夫人として封建的身分制度の桎梏から逃れられなかった。歴史評価の一つの手法として現在、未来から過去を見つめる発想が全て誤りであるとは断言できない。
封建体制下の身分を前提に人の生業を評価した幕臣夫人、より簡潔に言えば体制に属した人として隆子を評価することは容易である。ただ、人は誰でも生を受けた場から逃れられずその一面を引き摺って一生を送るもので、この事実は必ずしも批判されるべきものではない。人が入手できる情報には限界がある。むしろ、綻びた理論を掲げ現実を無視して己こそは来るべき時代の先達者と吹聴する者ほど人間社会を撹乱させる存在はないという事実を、人はもっと真剣に考えなければなるまい。彼には雷同するカメレオンの亜種が多数随従している。しかも、彼らは不都合な事態が生じると霧散して頬被りを決め込み素知らぬ顔して責任を取らない。我々も権威や権力に対して、幼少にして僧侶を揶揄した隆子(注100)の慧眼を持つ必要がある。幻想を抱くよりも、時には歴史を回顧して、時代の確かな歩みの一歩一歩を見逃すことなく書き留めておくことの重要性に人は気づくべきである。たとえ来るべき時代を予見し得なかったとしても、確かな資料を求めて時代を的確に記述した隆子の鋭い筆致に筆者は驚嘆の念を抱く。」
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●論文は、精緻を極め、引用しようとすれば、際限も無くなる。私は、今回の真下氏の論文を拝読して、隆子の幕臣夫人としての実体を確認することができた。限界は限界として明確にして、適正な評価をすべきである、そのことを教えて頂いた。井関隆子は、平成の世に、真下英信氏という研究者に出会えた幸せを、きっと感謝していると思う。私も、真下氏の研究に感謝している。
■『井関隆子日記』天保11年 現在は、昭和女子大学図書館所蔵

■『井関隆子日記』天保15年

■『井関隆子日記』の挿絵