日本の陰謀 というサイト

●たまたま、「日本の陰謀」というサイトに出合った。膨大なコンテンツがアップされていた。どのようなお方のサイトかは、判然としない。その中に、『井関隆子日記』の記事が紹介されていた。何時頃のものかも解らない。
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日本の陰謀 (1)

前 書

このシリーズでは、順不同に思いつくままに事例を取り上げる。
残念だが、この国には常に一貫した性癖がある。
■ 歴史を書き換えるためには何でもする。
○○○○年 ○月 ○日に起こった出来事を取り消すことは出来ないが、同じ ○月 ○日に派手な事件をぶつけて、自国あるいは世界のマスコミから都合の悪い出来事を消し去ることは出来る。
そうして人々の記憶は薄められる。不都合な事件が事前に予見できる場合は、同時に派手な事件がぶつけられる。予見できない場合は、その翌年以降の同じ日に派手な事件が引き起こされる。
過去の事件を上回る事件を作るのは大変な作業と準備が必要だ。それらは一般に、大災害・巨大なテロとなって現れる。
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天保15年5月10日(1844年6月25日)
妖異大年表
05月10日 †
江戸城本丸炎上
土井利位の刺客、火災の中で将軍家慶を狙うも加納左馬ノ助に阻まれる 『書院番殺法帖』

天保江戸城炎上
【HERMITAGE】
先頃、故吉田茂邸が炎上した。
歴史的価値も高い邸宅であったようなので、惜しまれる。 吉田邸は総檜造りの居館であったようだが、当たり前といえばそれまでだが、やはり木造建築物は火災に大変弱い。
ごくごく最近まで、日本の建築物は大半が木造であったし、現在でも木造建築は住宅を中心に大変多い。阪神淡路大震災以降、木造建築の耐震化が叫ばれている(あまり進んではいないが)が、防火対策ももう少しまじめに取り組まないと、大災害や大火災にはひとたまりもないだろう。

最近読んだ『井関隆子日記』を主題とした本の中で、天保十五年五月十日に起こった江戸城炎上がかなり詳細に記されていた。
江戸城は当時、言わずと知れた日本の政治の中心であり、京都禁中と並ぶ格式ある邸館でもある。江戸時代を通じて江戸城は何度も火災を起こしているし、市中の大火の貰い火を受けた事もある。
こういった場合、城中ではどのような状況に陥っていたのか、どういう対策を講じようとしたのか、また事後処理はどう行ったのか、などは意外にあまり知られていない部分でもある。
『井関隆子日記』の著者はあくまで旗本の老後家であったが、同居していた義理の子息や孫が御城大奥詰の上級役人であり、またこの老後家とは大変関係が良好であり、城中の様子を詳しく伝えていたため、意外に知られていないような城中(特に大奥関係)の様子を正確に残してある貴重な資料でもある。
当時を描いた幕府の正史『続徳川実記』ではわずか数行に満たない文章で書きとめられているにすぎない天保の炎上は、実はかなり深刻なものであった。

火災は、大雨の降る早朝に起こっている。
このところ長雨続きで、誰も火災の心配などしていなかったのが運のつきで、夏の短夜の事でもあり、ぐっすりと寝静まっている大奥で火の手が上がった。
気づいた端女が大声を上げたが、大雨の音にかき消され、気付く者が少ない。
ちなみに、江戸城大奥では「火事だ!」と叫ぶことは禁止されていたのだという。誤って騒ぐもとにもなりかねないし、小さい火ならば消せる事も多いため、むやみには「火事だ」と騒がないようにしていたのだそうだ。
ところが、この時もその習慣に従って騒ぐだけにしていたのが、大雨によって周囲の変化に気付きにくい時でもあったため、最悪の惨事を招く原因となった。
ようやく気付いた女中衆はパニック状態に陥り、ただただ泣き騒ぐのみで右往左往するばかり。大奥には、避難経路などの取り決めがなかったことがわかる。
大奥御広敷詰の役人が(隆子の子息らもいる)ようやく気付き、女中衆に詳細を訪ねるが、誰も耳を貸さずに泣き騒ぐのみ。 出入り口の門なども、番する者が逃げてしまっているため開ける事が出来ず、やむなく役人が木槌などで壊し、そこに集まってた女中達は、その破れ目から辛くも難を逃れた。
長雨が続いていたにも拘らず、本丸御殿の火の回りは非常に速かった。 火難を逃れた女中達や役人は、大雨の中を泥に足を取られながら吹上の庭へと非難した。
この大騒動の渦中、大奥の主である将軍の妻女や大御台といっても、避難するには大変であった。
隆子の子息・親経は、大御台所広大院が担当であったため、逃げ惑う女中衆から広大院の安否を聞き出そうとするが、誰も耳を貸しはしない。
大奥詰の役人といっても、大奥の中まで入る事はほとんどないため、大奥内がどうなっているか分からず、ようやく顔見知りの表使女中を捉まえ、広大院の居室へと案内させた。大騒ぎの渦中ではあるが、大納戸から乗り物(上流の使用する駕籠は「乗り物」と呼ぶ)を出して、女中衆に担がせて退避した。
将軍家慶の養女精姫君は、女中が背負って脱出したとある。
将軍もしばらくして吹上に姿を現し、あまりに騒然とした女中や役人の姿を見かねて「整然と行動するように」と声を度々かけたという。
本丸御殿と西の丸御殿は、規模こそ西の丸の方が小さめだが、構造は大変よく似ている。どちらも、大奥が最も火事に弱い造りであったと、すでに当時から認識されていた。大奥は土壁が全くなく、隔ては全て板であったというのだ。
それをわかっていながら、誰もそれを変更しようと思わなかったというのは、幕府役人がいかに前例至上主義であったかがよく判る。
火が回るスピードが、大雨の中とは思えないほど速く、しかも大奥から見れば出口にあたる一の側の局付近から出火したため、脱出できなかった女中衆が大勢亡くなった。
運良く役人によって門を破られた辺りに逃げた女中は助かったが、板門を開ける事が出来ずにそのまま焼死した女中も多く、逃げ場を失った女中達の焼死体が折り重なって前栽に打ち伏し燻っていた光景を、暗澹と描き出している。
翌日になっても火の勢いは衰えなかった。
以前、西の丸が炎上した折には、多くの町火消しを動員して消火に当たったそうだが、盗難が非常に多かったため、今回は自然に消えるのを待つという方針を、陣頭指揮にあたっていた老中・土井利位が打ち出していたためである。
ところが、火勢が衰えない上に風まで出てきたため、西の丸御殿までが危うくなってきたというので、富士見櫓や蓮池櫓などを火消しが打ち壊してようやく難を逃れた。
こうして、本丸御殿は残らず、一宇も余すところなく全焼。
書類、調度、宝物はもちろん、蔵の金銀まで焼け、特に銀は溶け流れてしまっていた。
奥女中達の亡骸は親類縁者に引き渡すことになったが、判別不可能になるまで焼けてしまったものが多く、上蟖の遺体として親族に渡したのが端女であったという事もあったそうだ。
火元は、広大院付き御年寄り・梅谷の管理下にあった端女の不始末という事になったらしい。水で消した炭を壺に入れて炭置きに置いたが、その炭の燠が燃え始めて周囲の炭俵に燃え移ったとされた。
江戸城炎上の記録で、ここまで大奥を中心に語られた記録は少ない。
いろいろな面でこの日記は貴重である。
この後も、幕府崩壊までの間、江戸城では火災がやはり相次いだ。
官軍が接収した江戸城も、すでに本丸御殿は焼けており、天璋院・静寛院宮ら将軍家親族が使用していた西の丸御殿が、この後、皇居宮殿として整備されて行く。
果たしてこれほど甚大な被害を与えた火災が、後代の江戸城内に教訓をもたらしたかどうかは、詳細が不明である。
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■「日本の陰謀」