『井関隆子日記』は古くない

●本日、真下英信氏から「音で読む『井関隆子日記』:鳥」(『慶應義塾女子高等学校研究紀要』第31号、2014年3月発行)を頂いた。真下氏は、これまでも、『井関隆子日記』に関する論文を多数発表しておられ、この日記の文学的価値を高く評価されている。
●今回の論考は、「日記に現れた鳥類の考察によって、作者の思想と日記記述の手法をより良く理解するために執筆」したものであるという。分析に当たって、鳥を次の3つに分類して進めておられる。
 A、声に焦点が合わせられている鳥類で鶯と時鳥。
 B、食肉として言及されている、雁、鶴、鴨、雉、鷺。
 C、その他の鳥類。
●分析・考察は詳細・厳密を極めている。井関隆子が生きていた当時の江戸の自然の状況を確認し、それらに対する人間の反応を多くの文献を精査して考察しておられる。真下氏は、この論文を次のように締め括っておられる。
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おわりに

 これまでの考察から,鳥の鳴き声,習性,飛翔する姿などの様々な特徴の記述は,隆子の日記が含蓄ある世界を形成するために重要な機能を果たしていることが明らかになった。彼女の該博な古典の知識が日記に時間的な厚みを与えているとすれば,繰り返される鳥の記述は日記に空間的な広がりを付与している。鳥を契機に新たな空間が次々に形成されていくのである。それ故に,日記で綴られている日々の出来事の世界を仮に一次元とするならば,古典の知識と鳥の記述は第二,第三の次元となって,日記の世界が立体的に構築されるための重要な機能を果たしているのである。
 鳥をめぐる記述を契機に,古典,とりわけ和歌の世界に踏み入ることによって隆子は,日記が単なる今の記録に堕するのを回避し,時間的な幅を与えることに成功している。しかも,己の生きている今を記述しながらも,彼女はそれを永遠の相のもとに置くことにも成功している。言い換えれば,古典が持つ普遍性と己が今生きている一瞬の世界が一体化されている。永遠なるものが一瞬と表裏一体となっているのである。他方,鳥の声は,鳶と戯れる子供達の描写や冴え渡る秋の空に雁を数える描写の如く,日記に空間的な広がりを与える機能をも果たしている。
 最後に,古典とつながる契機となった鳥は,幕藩体制下での鳥肉の機能と言う実的な側面を図らずも顕現させた。旗本衆は,徳川家から下賜された鳥肉などを賞味することによって,幕臣としての矜持と己の身分をその都度確認したのである。
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●私は、この『井関隆子日記』を出す時、本文の原稿を、少なくとも10回は読んでいる。しかし、この日記の内部にまでは、とても入りきれていなかった。日記刊行後、多くの読者や研究者に出会うことが出来た。研究者としては、新田孝子氏と真下英信氏の研究が特に優れている。井関隆子は、このように、自分の作品を評価してくれる研究者に廻り合って、幸せだと思う。私も、心から感謝している。
●過日、私は、この日記は、歴史史料としては、もう古い、と書いた。しかし、日記文学としては、まさに「文章千古事」のように、何時までも古びない輝きを放ち続ける存在である。
■真下英信氏「音で読む『井関隆子日記』:鳥」

■「文章千古事」 冨樫省艸 刻