個人史の中の史実

●東京都茗渓会の総会の記念講演に、氏家幹人氏が「東京から江戸へ歴史を編む人・ひもとく人」と題して講演し、その要旨が、2014年1月10日、茗渓会ニュースに掲載されている。
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東京都茗渓会 ニュース

2014年1月10日掲載
『東京から江戸へ 歴史を編む人・ひもとく人』氏家幹人氏 記念講演要旨
東京都茗渓会第一回総会記念講演 要旨
『東京から江戸へ歴史を編む人・ひもとく人』氏家 幹人氏

わたくしは茗渓の学舎を巣立ってから現在も奉職しております国立公文書館に勤めて4年程たった頃に『内閣制度百年史』という本の編纂執筆に携わりました。そのなかでこの史料は六十年安保の頃の岸政権の件ですが、当時の官公庁の刊行物などを精査し、下書きの原稿を関係各省庁の担当者へ回覧、その修正文言をさらに取り纏めるという作業を繰り返して作成したものです。ところが、その頃の世間一般では国会突入の騒動の中で女子学生の事故死などが喧伝されておりましたが、国の正史である刊行物に記載されたものがございませんでした。それは余りにも国民大多数の記憶と乖離した記録となると思い、敢えて一文を加えた次第です。この百年史が公刊されましたあといくつかのメディアから政権側の刊行物にこの事件が記載されたことの意外さを指摘されました。
正史と稗史の齟齬
こうした正史と稗史の齟齬は、江戸幕府の公的記録である『徳川実紀』におきましても当然ございまして、お示しした史料は八代将軍吉宗の美談として世に喧伝されてきた美女追放の大奥改革の件です。みめうるわしき者をリストアップせよとの下命により、その美女たちを解雇して結婚を奨励し、さなき容貌の者のみを大奥に残したという記述なのですが、実態は先学の三田村鳶魚が見事に考証したとおり真逆だったというのが、今では定説です。次の史料は、十一代将軍の家斉が側近の小姓たちを縁側から突き転ばすのを愉しんでいたというなんでもない悪戯のことを、その子供達の将来の立身出世に資すべく行った人物器量鑑定だったのだとのこじつけで正当化顕彰したものです。
個人史の中の史実
ことほど左様に正史では、むりくりの褒め言葉に溢れておりますが、一方では個人史のなかには詳細かつ的確に事実を記録し実態を批判したものが多数ございます。
例えば松浦静山の『甲子夜話』、江戸末期の旗本・宮崎成身の『視聴草』や天保期の旗本夫人・井関隆子の『日記』などです。私が面白いと思いますのは、例えば井関隆子の『日記』ですと、大奥での出産・乳児保育に関する件で、将軍家や大名家では多数の息女が生まれ過ぎるため、間引き方策として、非人間的な、スキンシップを一切欠いた育児方法をとっていたようです。それがようやく生母がみずからだき抱えて自分の乳を与えられるようになったことを寿いだ記事があります。
 【以下省略】
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●井関隆子は、江戸城大奥の情報を、子や孫からの情報で、日記に書き留めている。それらが、歴史家によって、紹介されることは、有り難い。
■茗渓会ニュース