斎藤広盛の記念碑建立 山形新聞 2011年10月25日

【酒田】まちの礎を築いた斎藤広盛の記念碑建立 子孫ら参列、足跡しのぶ

2代広盛など斎藤家の功績を記した記念碑の碑文を読む参加者=酒田市浜田1丁目  江戸時代初期に最上家重臣・志村光惟(あきただ)らに仕え、後に酒田城代や川北奉行として酒田のまちづくりの礎を築いた斎藤広盛(ひろもり)を顕彰する記念碑が、ゆかりのある上日枝神社境内=酒田市浜田1丁目=に建立され23日、同所で記念祝賀式が行われた。最上家の改易に伴い酒田を離れ約400年。式には子孫の斎藤豪盛(たけもり)さん(75)=長井市ままの上=らが参列、酒田での広盛の足跡をしのんだ。

 記念碑は、安山岩系統の山崎石で高さ約2.5メートル、幅約1.7メートル。碑文は広盛と父の初代光盛(みつもり)、広盛の長男で仮名草子作者の3代親盛(ちかもり)を中心に斎藤家の歴史が刻まれた。碑文は親盛の研究家の深沢秋男昭和女子大名誉教授が執筆した。

 広盛は酒田城代(亀ケ崎城代)を務めた際、当時城内に祭られていた上日枝神社に朝夕参拝したと伝えられており、「発祥の地・庄内に先祖の足跡を」という13代豪盛さんらの希望を受け、神社や神社総代らが協力して建立した。

 斎藤家は光盛の代に越後から庄内に入り、父の戦死により15歳で家督を継いだ広盛は米沢藩主の上杉景勝に仕えたが、関ケ原の戦いの後、酒田城代の志村光惟に請われて家臣となり、光惟が暗殺されると酒田城代となり築後守を名乗った。

 現在の相生町や浜田、幸町などに当たる旧築後町に屋敷を構え、戦国乱世で荒廃した酒田・飽海の復興に尽力し、まちづくりの礎を築いたとされる。だが1622(元和8)年、最上家の改易に伴って家臣を辞して酒田を離れ、越後の地で55年の生涯を閉じた。

 斎藤家は、3代親盛が江戸に出て仮名草子作品などの執筆に励んだが、4代秋盛(ときもり)が福島・二本松藩主に召し抱えられ二本松に移住。その後、長井市に移った。

山形新聞 10月25日