鹿島則文

鹿島則文(かしま・のりぶみ)1839〜1901。鹿島則文鈴木重嶺とは異なり、鹿島神宮宮司家の第67代という出自であり、世が世であれば、私などとても近寄れない人物である。しかし、則文も幕末・維新の激動の時代を、全身を挺して生き抜いた。若くしては、尊王思想に傾倒し、水戸藩士と行動を共にし、幕府に睨まれて、八丈島へ流される。赦免後は、特にその才能を評価されて、46歳の若さで、伊勢神宮の大宮司に抜擢されている。在任中に、神宮皇學館を開学し、自ら第2代館長に就任、神官の教育に尽力している。

●私は、則文のお孫さんの則幸氏に大変お世話になっていて、則幸氏の要請によって、則文の略伝をまとめることになった。昭和55年(1980)のことである。この時、私は人間評価の基準を一変させられることになった。人間は過去の遺産を学んで吸収し、やがて、それらを踏まえた自分のモノを世に送り出す、そのように考えていた。それは、文章として、著書として送り出すことである、私は、そのように考えていた。ところが、則文には著書が無かった。少しはあったが、無いに等しいものであった。このような人物の伝記は、まとめるに値するのだろうか。

●私は、何日間も、何ヶ月間も、筆が進まなかった。そんな低迷の時に、ふと浮かんだのが、狩野亨吉の生き方であった。日本自然科学思想史の開拓者、哲学者で大教育者の狩野亨吉は、死後、書き残したものを集めてみたら、一部の小冊にしかならなかったと言う。しかし、則文も亨吉も、過去の遺産を十分に吸収していた。則文は「桜山文庫」を遺し、亨吉は「狩野文庫」を遺した。歴史上における人間の価値は、自分の著書の多少によるものでは、必ずしも無いのだ。私は、ようやく、鹿島則文の略伝をまとめる事ができた。

■■鹿島則文 新宮皇學館館長時代

■■則文の短冊 さち子は母