定命六十 → 七十歳

寛永19年(1642)版11行本『可笑記』巻2の38段に、如儡子・斎藤親盛は、次のように記している。

「定命六十年といへども、まづ、十二三までは、さのみ何事をも弁ぜず。廿斗の程は、父母兄臣の気をかね、万事思ふやうならず。又、六十以後は、世間をはばかり、かへつて我子の気をもかね、或は目みえず、耳きこえず、歯もうごきいたみ、手足かなはず、身体おとろへ、腎水かはき、脾胃きよそんじ、日々うれへかさなり、月々に後悔のみ数そひはべる。・・・命ながければ、はぢ多し。人はただ四十にたらぬ程にて死なんこそよけれ、と吉田の兼好もいへり。さあらば、定命六十年といへども、あとさきをとり捨てみれば、わづかなる命の間也。」

●2009年の現在、私はもう、人生七十古来稀なり、の古希をとうに過ぎた。しかし、かく言う如儡子も、自身は72歳まで、この世に生を享けて、延宝2年(1674)に没している。12年間長生きした。だが、彼は、のんべんだらりと生きていた訳では無かった。『可笑記』の他に『玉砕抄』という膨大な百人一首の注釈書を遺し、諸大名を批評した『堪忍記』も書き残した。私も、リタイア後を、ただ、のんべんだらりと生きていては、申し訳ないだろう。『玉砕抄』の研究もまとめなければならないし、『斎藤親盛(如儡子)の研究』も出さなければ、ライフワークは終わらない。

■■『可笑記寛永19年版11行本(桜山文庫)、巻2の38段