石澤豊先生

●今日、物置の書籍を整理していたら、『石澤豊追悼』(昭和54年5月12日発行)が目に付いた。この追悼集に、私はこんな文章を寄せている。


石澤先生のこと                        深沢秋男

 今、私の部屋には恩師重友毅博士のお写真とかわいらしい蓑笠が一つ掛けてある。
 このお写真は昭和四十一年二月水戸の桜山文庫に訪書した折のものである。車中でのものであるが、隣席のお嬢様にそそがれる眼差しが何ともおだやかで、博士の温かいお人柄が伝わってくる。私はカメラが好きで随分撮らせて頂いたが、これが一番好きである。
 博士は五十三年八月、七十八歳で他界された。五十一年一月に石澤豊先生を、同じ二月に菅原真静先生を失ったが、この相次ぐ愛弟子の葬に歩を運ばれ、香を手向けられた博士のお心の内は察するに余りあるものがある。殊に年若くして先立たれた石澤先生には哀惜の念が一層強かったものと察せられる。
 石澤先生の訃報に接したのは一月五日、重友博士のお宅での新年会の席であった。長い御病気も快方に向かい、今年からは研究会に出られるかも知れない、と伺った矢先の事である。会は一瞬のうちに灰色におおわれ、一人一人が元気を出そうと努めたが、それは虚しいものだった。私は胸のどこかに大きな穴があいたようで、何をしても何を言っても力が入らなかった。
 それから三年が経った。
 石澤先生と初めてお会いしたのは、昭和三十八年、日本文学研究会の席上であった。会は月一回重友博士のお宅や法政大学などで行われたが、石澤先生は四月二十一日に『徒然草』四十一段を御報告になり、翌三十九年四月二十六日には『万葉集』について御発表になった。先生の『万葉』への鋭く精緻な切り込みは、新人の私にとって大きな感動であり、その後の研究の一つのお手本になった。しかし、先生の研究のテーマは古代から近代に至る、日本人の心の中に流れる思潮の解明といった大きなものである事をその後伺った。そして、先生は、着々と御研究の歩を進められたのであったが、その頃から御健康がすぐれず、長い闘病生活に入られた。「今年こそは会に出られる」というお便りを何度頂いた事か。
 先生は大きな研究のテーマをいだきつつ、長い旅路に出られた。しかし、このテーマは決して消える事はないと思う。やがて、誰か、これに挑む者が必ず出てくると信ずる。それは、今、すくすくと元気に成長されている先生のお子様であるかも知れない。
 私の部屋には、かわいらしい一つの蓑笠が掛けてある。調布時代の台所の一隅に机があった時も、新検見川の団地の時も、そして今も、私は、ずっとこの蓑笠をながめながら研究を続けて来た。そして、これからもずっと、この蓑笠は私の部屋から消える事はないだろう。小さな笠には「祝 可笑記評判 昭和四十六年」と、石澤先生のお心のこもった筆で書かれている。私の処女出版『可笑記評判』への、先生のプレゼントである。御郷里・天童からわざわざ持って来て下さった。私は生まれつき地理にくらい。山形と言えば石澤先生を思い出し、天童と言えば石澤先生を思い出す。それだけである。そして、それでよいと思っている。
 恩師・重友博士のお写真と、先輩・石澤先生から賜った蓑笠に見守られながら、私は今後も近世文学の研究に打ち込んでゆくつもりだ。(昭和五十四年二月)

■■『石澤豊追悼』(昭和54年5月12日、同書を発行する会 発行)

■■この先生の写真は、同書に収録されているもので、日本文学研究会の夏の旅行の折に、私が撮ったものである。

■先生から頂いた蓑笠
昭和46年に戴き、以後、ずっと書斎に掛けて、研究に打ち込んできたが、現在は、自著のコーナーの横に掛けて、感謝している。38年前のことになる。