浴を花清の池に賜う

●今、浅井了意の『やうきひ物語』の校正を進めている。例の玄宗皇帝と楊貴妃の関係を白居居が詠じた『長恨歌』に了意が注釈を加えた作品である。
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楊 貴妃(よう きひ、719年(開元7年) - 756年7月15日(至徳元載(元年)6月16日))は、中国唐代の皇妃。姓は楊、名は玉環。貴妃は皇妃としての順位を表す称号。玄宗皇帝の寵姫。玄宗皇帝が寵愛しすぎたために安史の乱を引き起こしたと伝えられたため、傾国の美女と呼ばれる。古代中国四大美人楊貴妃・西施・王昭君貂蝉)の一人とされる。壁画等の類推から、当時の美女の基準からして実際は豊満な女性であった。また、音楽や舞踊に多大な才能を有していたことでも知られる[1]。  【ウィキペディア より】
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●春寒して浴を花清の池に賜ふ
春さむうしてとは、いつも春はさえかへりて寒きものなり。湯に入り給ふこと也。かほどに美しき美人を得給ひ、何事もおぼしめす御ままなり。このうへには、御身の御やうじやうをのみこととして、御ことぶき長く、いつまでも貴妃にそひたまはんために、花清の池の温泉に入り給ふなり。花清池は驪山といふ山にあり。・・・
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●了意はこのように注釈を加えている。3月15日、ちょうど今頃の気候であろうか。玄宗皇帝は西安から60キロほど離れた、驪山のふもとの華清池の温泉に楊貴妃とともに訪れる。
●私は、平成6年(1994)9月5日〜9月16日、昭和女子大の人見先生、原田先生、大西先生など、80名ほどで中国旅行をした。9月9日、杭州から西安空港に移動し、華清池や兵馬俑や秦の始皇帝陵を見学した。
●この中国旅行は、実に楽しく、学ぶこともあり、実りの多い内容だった。それに、大西先生、南さん、関さん、この4人は常に同室・隣室で、毎晩酒宴を開いて楽しんだ。
■『楊貴妃物語』国会図書館

■驪山  図録より

■温泉の遺跡  図録より

楊貴妃も入ったという湯殿 深沢撮影