詩の心  『黒豹』 第136号

館山市の諫川正臣氏から『黒豹』第136号を頂いた。巻頭の尼崎安四の「蛇の死」をはじめ、竹内勝太郎の詩論「詩の内容とは」、以下、同人の作品が収録されている。「編集後記」には、尼崎安四に就いて、詩の修業を重ねた、諫川正臣氏の体験談が載っている。詩人・尼崎安四の詩を生み出す背景を知ることができる。一人の人間が、この世に生を享けて、あの世に旅立つまで、どのように、自己を燃焼させていったか、そのひとコマを推測できる。記録とは、素晴らしい。
●この号の、竹内勝太郎の詩論「詩の内容とは」は、思わずうなってしまう。凄い批評者がいたものだ。竹内勝太郎は、私が生まれた時に他界している。
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詩の内容とは
 何が詩の内容であるかを考える時、人は往々にして真実のものを見誤る。多くの場合人が詩の内容として取りあげるものは思想、概念、固定観念等々等である。然しながらそれは詩の素材ではあり得ても決して詩の内容ではあり得ない。若しこう云うものが詩(或は芸術)の内容であるとするならば詩とはかような思想乃至観念を詩的技巧を以て表白したものに過ぎないであろう。
 それなら詩は実に簡単な他愛もないものと云わねばならない。それは唯思想とか概念とかを詩的方法で表出する技術にとどまる。云わば散文でも充分言い表わせるものを旁々詩的言葉遺を用いて言い換えて見せるに過ぎない。一色で描いた絵を様々な絵具を使って色彩豊かに描き直し、逆に多種雑多な絵を簡素に単純化して墨画に改める、或は一言で云えることを絢爛たる言葉の綾をつくして表明し、反対に多岐多様の言語描写を一言に圧縮する、それに似た働きをすることが詩人の創作だと云うことになるのである。詩と云うものは茲に至って全く種々なる言語技術につきる。何人がかくの如き児戯に類する事柄にその生涯を賭けることを肯うであろう。
 詩を批評する場合、人は常にその作品のなかから作者の思想乃至観念と思われるものを抽出するのに骨を折る。然しながら之れを以て直ちにその詩の内容と見倣す評者があるならば、彼は如何なる時でも詩の本体を見失い、真実の生命にふれることすらも拒まれるに違いない。優れた批判的精神を持った人はそれが単なる詩の素材に過ぎないことを知っている。ただ彼はこの素材を検出することに依って、その素材に作者が如何に働きかけ、或は素材が詩人に如何に働きかけたかを了会しようとするのである。この了会からして更に彼はその詩が読む人に働きかけてゆく力の生まれる源、その現れ方、在り方、及びその働き方等々等を体験し、覚ることができる手がかりを掴み得るのである。
 詩が人に働きかけてゆく力の働きそのものこそ詩の内容でなければならぬ。

                           竹内 勝太郎
                             一九三五・没
            (原文を常用漢字・新仮名遣いに書き替えてあります。)
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●一般に、〔ことば〕と言っても、それぞれ受け止め方がある。私は、以前、国語学専攻の方々と、〔ことば〕について語り合ったことがある。文学の研究を目指す私と国語研究を目指す方々と、これほどまでに、格差があるのかと、驚いたものである。一般的な〔ことば〕に、作者は、自らの想いやインプレッションや、様々な要素を付加して使用している場合もある。竹内勝太郎の文に接して、そんなことを思い出した。
■『黒豹』 第136号